4.謎のバイト ~馬誘導係~(2025-05-21 更新)
学生の本分である勉学には全く無欲だったが、ことバイトには対しては極めて貪欲だった。夏休みも冬休みも持てる限りの時間をバイトに費やした。特に冬休みが最高に充実していた。朝は4時のヤクルトに始まり夕暮れの郵便配達まで、まさにバイトに明けバイトに暮れる日々を送っていた。働いて収入を得る事にこの上ない喜びと生き甲斐を感じていた。だからバイトに関する情報には誰よりも敏感だった。そんなある日、学級担任が朝のホームルームで開口一番「バイトやりたい奴はいるか?」いつもの低音で威圧的な声だから、隠れてバイトをやっている僕には「バイトやってる奴はいるか?」と聞こえ、ドキッと心臓が飛び出しそうになった。担任が持ってきたアルバイトは「第3回信玄公祭り」の山梨県が募る補助スタッフで、県立高校として学校公認のアルバイトだと言う。祭りの当日1日限り8時間で日給3000円、さらに嬉しい弁当付きの好待遇だったから、詳しい仕事の内容も聞かず1番に手を挙げた。「ハイッ!やります!」授業では目立たない僕が、真っ先に手を挙げたものだから担任の驚いた顔は今でも良く覚えている。
仕事についての説明は何もないまま祭りの日を迎えた。昨日、担任から腕章を渡され「これを着けて12時に武田神社に行け!」とだけ指示された。黙って従うしかないので、時間にだけは遅れないように出掛けた。腕章には「馬誘導係」と書いてある。「馬・・・」よく考えてみたら今日の今日まで馬には触った事すらない。軽いノリで希望したバイトだったが、僕に務まるのだろうか?手綱を持った途端に振り回され蹴とばされ、挙句の果てに堀に落ちて溺死!!なんてことになったらどうしよう。あれこれ考えていたら、あっという間に武田神社に着いてしまった。
そこには牛かと思うような大きい馬が8頭もいた。一瞬で昇仙峡から来た馬だと分かった。祭りのハイライト甲州軍団出陣で、鎧兜で武将に扮した知事さんや、その他お偉いさん方が騎乗する馬が、まさか昇仙峡の馬車馬だとは・・・。僕の腕章を見て屈強な体格のおじさんが馬を連れて近寄ってきた。こんなに近くで馬を見るのは初めてだから後ずさりする僕に向かって「舞鶴城までよろしく頼みます」と、声を掛けられる。慌てて僕も「こちらこそよろしくお願いします」と返す。
おじさんの説明は、「手綱は持たなくていい、馬は左側通行」それと「絶対に馬の後ろに回るな!」口数が少ない所は担任と似ている。どうやら馬には触れることなく、単に道案内をするだけのようだ。僕を先頭に馬8頭と手綱を持つ8人が一列になって出発した。だが案内するような道ではない。だだ真っ直ぐに行けばお城が見えてくる。じゃあ交通整理か?これも交差点には警察官がいる。
ただ居ることが仕事、とでも言うのだろうか。仕事が生き甲斐の僕にとってはまるで古文の授業並みの退屈さだ。ぼんやりと500mほど進んだ山梨大学辺りまで来た時だった。先頭の手綱を曳いていたおじさんから突然「乗ってくか」と声が掛かる。えっ!?意味が分からない僕に「良いから乗れよ」と再び声が掛かり馬は止まった。
「鞍を掴んでアブミに左足を乗せろ」言われるままにすると、右足を持ち上げられあっという間に僕は馬上の人になった。馬の背中は高い。怖いくらいの高さだ。緊張で固まっている僕におじさんが言い放つ。「背中を丸めるな!背筋を伸ばせ!真っ直ぐ前を見ろ!」恐る恐る顔を上げると、道幅が一気に広がったように感じて目が眩みそうになる。負けじと真っ直ぐ前を見据える。
馬は背に乗せた坊主頭の高校生の事など全く意に介さない様子で歩き出す。一歩一歩進むたび見慣れたはずの街並みが初めて見る景色のように迫ってくる。潔い良いほど真っ直ぐ延びた武田通りに8頭の馬の蹄の音が響き渡り、沿道に見物の人たちが集まってくる。目を輝かせて手を振る子供たち。ついさっきまで社会の底辺にいた僕は突然スポットライトを浴びた主人公のような気分になる。勇ましく騎馬隊を従え戦に行く大将だ!粗末な身なりも今は気にならない。左腕に巻いた「馬誘導係」の腕章が勲章のように誇らしい。
「向かうところ敵なし!」と言わんばかりの凛々しい武将の気分にどっぷり浸っている時だった。目の前に母校の新紺屋小学校の横断歩道橋が現れた。「頭をぶつける!!」慌てた僕は咄嗟に首を引っ込めた。が、通り過ぎてしまえば全然ぶつかるような高さではなかった。子供たちにみっともない所を見せてしまった。百戦錬磨の武将としてあるまじき醜態である。
程なく舞鶴城公園の石垣が見えて来て、僕の妄想は吹き飛んだ。存在意義は不明だが、僕の仕事は「馬誘導係」なのだ。このまま馬に誘導されていたらバイト代はおろか、楽しみにしていた弁当まで没収されるかもしれない。武士のプライドより目先の弁当に軍配を上げた僕は、名残惜しさを振り切って馬を降り、ただ先頭を歩くだけの人に戻った。
お堀の橋を渡ると大勢の武者たちが集結し、かがり火が焚かれ本番を迎える祭りの熱気で溢れ返っていた。この後は腕章が「警備係」に変わり、南口ロータリーの特等席で歩道に張ったロープを持ち「押さないで下さい!」を連呼しながら、自分が一番前で信玄公祭りを堪能した。
あの日、どうしておじさんは馬に乗せてくれたのだろう。退屈そうな僕の背中に何か感じたのか。それとも単なる馬のウォーミングアップだったのか。真意は分からないが、馬の背に乗った瞬間、僕には生まれ育った街がまるで初めて来た街のように見えた。
自分の見え方だけが全てだと思い込んでいてはつまらない。もしかしたらおじさんは、これを伝えたかったのかもしれない。馬の背で聞いたおじさんの言葉を、今でも教訓のように思い出す。
社会人になっても僕のアルバイト癖は治らない・・・つづく
