エッセー「仕事が趣味で60年」

2.男だけどヤクルトレディ(2025-03-21 更新)

高校入学と同時に、兄からヤクルトの配達を引き継いだ。ただの配達ではなく今で言うヤクルトレディだ。それまでに経験した新聞や牛乳と違って、仕入れから配達、さらに集金、セールスまで行うオーナー制度で、頑張れば頑張った分の稼ぎが増える。割り当てられている区域は東の朝日町通り、西の相川、南は中央線、北は山の手通りで区切られた当時から比較的に可処分所得の高いエリアだった。
ちょうどヤクルトもガラス瓶からプラスチック製の容器に変わった時期で、サイズも小さく牛乳に比べ配達の労力は格段に楽だった。ただ、瓶の名残かプラスチックに変わっても空容器を出すお宅が多く回収の手間は変わらなかった。また僕が始めた年に新商品のジョア(確か40円)3種類も発売され飛ぶように売れる人気商品だった。
高校生活もクラブ活動なんて暇はない。授業が終わると速攻で帰り、中古で買ったホンダのカブを走らせ国立病院の前にある配送センターに向かう。ここで翌日の配達数量を記した注文伝票を書いて帰る。翌朝は4時に起きて夏でも真っ暗な中を出掛ける。無人のセンターには人が入れる大型の冷蔵庫が有り、簀の子の上にプラスチック製ケースに入った自分の伝票と共に商品が届いている。愛車のカブ50ccの荷台に本社から供与されたヤクルトのクーラーボックスを積み出発だ。カブは中学生から無免許で乗り回していたから運転には自信がある。だから3年間の配達で1度もこける事はなかったが、授業中に居眠りでこける事は度々あった。
そこで、せめて日曜日くらいは朝寝坊できるように土曜日に倍配と言って2日分の配達をした。
朝寝坊ができた日曜日は夕方からセールスと集金に歩いた。日曜日の夕方が家庭の在宅率が高くセールスや集金の効率が良い。一般家庭の1本2本の契約と並行して重点的にセールスしたのが担当エリアの中心にあり何時も入院患者で満床の山梨病院だった。事務長宛に何度もサンプルを届けてやっとの事でアポイント取った。約束の時間に訪問すると、いきなり単価(値切り)の話しになった。
値切りは想定していたから準備してあった答えを返した。「値引き販売は本社から厳重に禁止されていますので、代わりに10本に1本おまけを付けます。」商売によく使われる俗にいう十一だ。商談は5分と掛からなかった。先ずは10本から配達が始まり、それが30本、40本と10本単位で増え、最終的には100本プラスおまけ10本の契約になった。
ある夏の朝、山梨病院の配達を終えた時、夜勤明けの看護婦さん数人からお兄さ~んと呼び止められた。ジョアあるー?ジョアは高額商品なので配達分以外に余分は持っていない。だが相手は上得意先の看護婦さんだ。条件反射的にハーイ有ります!と答えてしまつた。物売りに取っては買ってくれるお客様が何よりも有り難い。それにその場で現金収入が得られるのも魅力だ。一人買えば私も私もだからクーラーボックスの中のジョアは瞬く間に空になった。配達の途中だが、センターに戻って緊急対応分で用意してあるジョアを出荷伝票と引き換えに仕入れる。汗だくになって配達を済ませたが、当然こんなイレギュラーがあった日の学校は遅刻になる。
学級担任は色付の眼鏡にオールバックでまるでヤクザの風貌、またお前かー!何をやってる!大声で怒鳴られて縮み上がる。校則でアルバイトは禁止されていたから、理由を問われ寝坊と答えるしかないが、答える前にげんこつが飛んできて目から火花が飛んだ。本当に悔しかった。心の中で、お前がまだ寝ている内から俺は起きて働いているんだと叫んだ。
一番大変だったのは2泊3日の修学旅行前日の3日分の配達だった。通常の3倍の本数なので配達エリアを3つに分けてセンターとの間を何度も往復した。3時から配達したが、この日も学校は遅刻だった。
凍てつく冬の朝は厳しく、梅雨の雨は辛く、そんなやこんなや色々あったけど、ただひたすら頑張った。高校の3年間は皆勤でヤクルトの配達とセールスに明け暮れ、3年生の3学期には当時の高卒の初任給が5万円の時代に、月平均5万円近く稼ぎ出し完全にバイトの域を超えた。余程セールスの成績が良かったらしく卒業を控えた頃にはヤクルト山梨販売にそのまま就職しないかと強く誘われた。
集金を滞納していた旅館があったが、4月から社会人になると伝えると全額まとめて支払ってくれた。他には、特に記憶に残るようなトラブルはなかった。総じて社会が寛容だった。それは僕が高校生だっただけの理由ではない。社会が上昇機運の良い時代、健康志向の追い風を受け良いアルバイトが出来たのは幸運だった。
僕のアルバイト歴まだまだ、こんなもんじゃない・・・つづく