3.冬休みの郵便配達 ~53年後の謝罪~(2025-04-21 更新)
高校の3年間はヤクルトの他にも色々なアルバイトを経験した。時間のある限り働きたかった。何故なら3人兄弟の末っ子、4歳下の弟を大学に行かせるのが家族の目標だったからだ。中でも鮮明に記憶しているのが冬休みの郵便配達で、ヤクルトと共に3年続けた。毎年12月に郵便局がアルバイトを募集するのは、年末に増える広告などの郵便物と、当時は膨大な量だった年賀状の配達に対応するためだ。このため多くのアルバイトが採用され、正職員が年末年始の休暇を取得する目的も果たした。甲府郵便局の本局は市役所に隣接していてカブで3分と近かった。郵便物の仕分けをする内勤と、配達の外勤に分かれている。内勤より外勤の方の時給が高かったから、僕は迷わず外勤を志願した。担当したエリアは土地勘がある北口の半分と自宅がある元紺屋町の全戸で、始めは職員が配達する赤いバイクの後ろを自転車で追いかけて道順を覚えながら各戸を回る。これを1週間で覚えてソロデビューの日を迎えた。
郵便局の真っ赤な自転車は頑丈で重く、荷台に郵便を詰めたコンテナを積むと相当な重量になる。これを駐車の度にセンタースタンドで立てるのだから大変だ。さらにハンドルの前に革製のがま口カバンを括り付ける。そして腰に書留郵便が入った縦長の革ケースをベルトで着けて自転車に跨った。本局を出発すると道は緩やかな登りで始まり、直ぐに最大の難所が待ち受ける。当時の県民会館(今のスクランブル交差点)から中央本線を跨ぐ橋長430mの舞鶴陸橋に向かう急勾配の登り坂だ。特に冬の午後は決まって八ヶ岳おろしと呼ばれる季節風が正面から猛烈に吹き付けて心臓破りの坂になる。止まったらもう動き出すことは出来ず、降りて総重量50kg近い自転車と共に歩く事になる。だから左右に振られながらも立ち上がって懸命にペダルを踏み続ける。もちろん変速ギアなど付いていない。あるのは根性という名の吾身の魂だけだ。
陸橋の坂を下って甲府駅の北口から配達が始まる。この地域は駅裏の一等地で立派な門構えの家が多く、1軒あたりの郵便物も多い。上手な配達には教わった通りの要領がある。内勤の担当者が仕分けた配達順に番号札が付いた郵便の束が、幅の広い輪ゴムで止めてある。これを左手の親指と人差し指で挟み、残り三本の指でハンドルを握る。だからブレーキは右手の前輪だけとなり慣れない内は怖い。自宅がある元紺屋町に入ると再び苦行が始まる。妙遠寺の墓地を抜けて、愛宕山の山腹に迫って建つ住宅地の配達だ。ここでは流石に自転車を降りてハンドル前方の革製カバンを外す。この頑丈で重いカバンにはショルダーベルトが付いていて、肩にタスキ掛けして徒歩での配達になる。
外勤の出勤時間は午後1時で直ぐに積み込み出発するが、自転車だから時間が掛かるのは仕方がない。それでも容赦なく12月の日暮れは早く、暗くなってから郵便局に帰ることも度々あった。局に帰ると早く戻った外勤者は内勤の応援に入り、翌日配達分の仕分け作業がある。当時の郵便番号はまだ3桁で機械が読み取るのは甲府市まで、その先は人海戦術で仕分けるのだから内勤も大変な作業だった。帰りが遅い僕は早く戻った仲間の目線が気になったが、僕の配達エリアに坂道が多いことを承知している担当の職員さんは何時もご苦労さんと優しく応対してくれた。
2年生になると経験者の扱いで時給が上がりモチベーションも上がった。配達も要領よくできる様になりミスもなくなった。そんな調子に乗っていた僕に過信が生まれた。このバイトで最も重要な元日の朝に寝坊した。ヤクルトは大晦日に元日分を倍配してあったから油断していた。1年生の時は6時前に局に出勤したが、7時を過ぎてしまった。焦って配達を始めるが、とにかく年賀状の配達は量が多いので局との間を何度も往復しなければならない。朝の出遅れが響き最後の方では昼過ぎになってしまった。ほとんどがご苦労さんと声を掛けてくれたが、1軒だけその家の主人と思われるオヤジに大声で「遅い!!」と怒声を浴びせられた。悔しい思いはしたが、いつも学級担任に怒鳴られていた僕はこの程度の事ではへこたれない。
3年生になってヤクルトが順調だったこともあって僕の慢心はさらにエスカレートしていった。時は高度経済成長の絶頂期だったから12月に入ると歳末商戦が過熱し、膨大な量の広告郵便が増える。中でも代表的だったのが甲府で競っていたY百貨店とO百貨店の年末セールを知らせる広告で、大量の封書やハガキが一斉に送られる。今では空地だらけの甲府の街も、当時は住宅がひしめき合い自転車も入れない狭い路地が普通にあった。だから面倒でも自転車を降りて歩いて配達することになる。これを普段ほとんど配達がない路地裏の長屋にまで満遍なく配っていた。1年生、2年生の時は何とか我慢していたが、流石に3年目ともなるとこの広告ハガキに対する嫌悪感が芽生え始めた。「どうせ、ほとんどの人がろくに見もせずゴミ箱に捨てるんだろう。こんな大変な思いをしている事がバカらしい!」
この日も大量の広告ハガキに疲弊しながら配達半ばの水道橋まで来た。ひねくれた思いを沸々と滾らせついに限界に達した僕は、橋の上で自転車を降りた。そして憎き広告ハガキを抜き出し輪ゴムで留めると何の躊躇いもなく川岸の背の高い草むらめがけて渾身の力で投げ捨てた。その瞬間、パチッと音がしてハガキは紙吹雪のごとく風に舞った。ひらひらとスローモーションのようにゆっくりと落ちて行き、やがて橋下のかなり広範囲に散乱した。その数100枚くらいはあった。何枚かは川に流れて行く。いっそ全部が川に流れてしまえば良かったものの、河原や脇の畑に散乱した大量のハガキは誰の目にも直ぐとまる。「悪事千里を走る」大量のハガキを投棄したのは何処の誰か、いとも簡単に分かる。警察沙汰になり学校も退学になってしまう。やばい!我に返った僕は、慌てて橋の脇の急斜面を駆け下り、水辺の石に引っ掛かり流れそうなハガキから優先的に拾い集める。幸いこの間、誰も通りかからなかったので僕の所業を見た者はいない。家が近かったので持ち帰って土間に広げ、濡れたり泥が付いたりしたハガキを雑巾で拭き取る。面倒な仕事を増やしてしまった事が情けなかった。そこに母親が仕事から帰って来た。正直に話すと「馬鹿だね」と一言だけ。促されて残りの配達に出掛ける。この日の配達を終えて郵便局から帰ると濡れたハガキは洗濯バサミで干され、他のハガキも綺麗になっていた。
幸か不幸か束ねた輪ゴムが外れたことで、川に流れて行ったハガキ以外は一日遅れで配達することができた。愚かさ故に当時は罪の意識を感じていなかったが、後に自らが広告ハガキを出す立場になった時、初めて犯した罪の重さを知った。今では交通渋滞が日常的な甲府北バイパスの水道橋に当時の面影はない。あるのは生涯拭い去る事の出来ない自責の念だけである。
まだある僕のバイト歴・・・つづく
