多くの方々に支えられ創業36年を迎えることができました。
思えば長かったような、早かったような道のりでしたが、まだ目指す最高点の頂には届きません。煎豆屋はバブル後期の1989年に自家焙煎コーヒーの卸問屋として創業しました。
当時、県内には自家焙煎のコーヒー業者は数えるほど。厳選した原料を受注してから焙煎、新鮮パックを売りに取引先は瞬く間に県内全域に広がりました。
やがて得意先のレストランで評判になったコーヒーの味が話題になり、この店と同じコーヒーが欲しいと人々が工場を訪ねて来るようになりました。
こうして始まった工場直営の挽き売りは29年になり、レジの顧客登録は3000名を超えました。
初めは面倒だと思っていた小売りでしたが、今ではコーヒーの評価がお客様からダイレクトに返ってくる事に醍醐味を感じています。この店頭で得たお客様の反応を、卸売りの商品開発に反映させることで好循環が生まれ、多くの得意先から高い評価を頂くコーヒーが出来上がります。
今後も慢心することなく、今まで培ってきた技術と経験を基盤に、更なる高みを目指し日々研鑽を重ねて参ります。
皆様の変らぬご愛顧を、心よりお願い申し上げます。
2025.01.01
エッセー
「仕事が趣味で60年」
1.真空管のソケットを組立てる
社会全体が貧しい時代だったから特別な事ではないが、僕は小学3年生から母親の内職を手伝っていた。昼間はフルタイムで働く母親と夕飯後、ちゃぶ台の上、白熱電球の下で真空管のソケットを組み立てた。黒いベークライト製のソケットベースには真空管のピンを挿すための複数の穴が開いていて、母親がその穴に銀色に錫メッキされた金属端子を挿す。僕の作業は工場から貸与された千枚通しの先をカギ状に曲げた工具を使う。ソケットを底から覗くと母親が挿した端子の先に配線を半田付けするための穴が見えるから、この穴に工具の先を引っ掛けて引っ張る。するとカチッと音がして端子の顎がソケットに噛み合いロックされて抜けなくなる。これを端子の数だけ丁寧に繰り返すと1個の真空管ソケットが完成する。単純な作業だが、端子を引っ張る力の加減を誤るとベークライトは硬質の素材なので簡単に欠けて不良品になってしまう。毎晩の作業を根気よく続けると1週間で500個ほどの真空管ソケットが完成する。これを学校から帰って甲府駅北口の電機会社に納品するのも僕の仕事だった。
僕の自慢の愛車は隣りに住む器用な叔父さんが何処からか拾って来たと言う部品でハンドメイドした自転車だった。今にして思えば自転車の部品が落ちている時代ではない。クズ屋(廃品回収業)からスクラップ寸前のフレームやらハンドルやらを、お金を払って買ってきたに違いない。仕事が休みの日に路地の片隅で黙々と組み立て作業をしていた。ひと月ほどして完成した自転車は24インチの子供用サイズだ。それまで僕のための自転車だとは知らなかったから驚いた。無骨な叔父さんらしい頑丈な組立に不満はなかったが、サビが相当に酷かったのだろう、刷毛で何度も重ね塗りしたペンキは異様に分厚かった。それでも本当に嬉しくて、貰ったその日は飛び上がって喜んだ。この水色の自転車に跨ると甲府駅までは下り坂だから早い。
活気がある工場に着くと、揃いの作業着を着た工員が忙しく働いていて、工場全体には基盤などのベークライトの独特の臭いと半田付けの煙が漂っている。そのツンとした刺激臭を僕の鼻腔は今でも覚えている。納品は極めて簡単で、完成した真空管ソケットを袋ごと秤に乗せ重量を計る。それを1個当たりの重量で割り算した納品伝票を受け取る。伝票に書かれた個数が母親の数えた数より少ない日も有り疑問に思ったが、小学3年生の少年が異議を唱えることは出来るはずもない。組立の膨大な労力に比して余りにも簡素な納品が終ると、次回の材料を受け取る。大きなビニール袋に入れたソケトッベースと小さな袋に入った端子が、これもまた個数は秤で計られ、数量が書かれた伝票と共に受け取る。
事故はその帰り道に起こった。自転車のハンドルに吊り下げたビニール袋が何かの弾みで前輪のスポークに絡まり破れた。直ぐに急ブレーキで止まったが瞬く間に袋から部品がこぼれた。当時はまだ舗装道路ではない土の道で、土色の地面1m四方に銀色に輝く端子が鮮やかに広がった。幸いだったのは、自動車は一日に一台見るかどうかで滅多に通らないことだった。慌てて地面に這いつくばって僕はこの長さ12mmほど、仕入れ額がべらぼうに高い銀色の端子を懸命に拾い集めた。恥ずかしいとか惨めとかと言う考えには及ばなかった。母親から聞かされ知っていたからだ。この真空管ソケットを組み立てる内職の決まりは、先ず工場から部品(1個分45円)を仕入れる。これを組み立て完成品にすると工場が買い取ってくれる。そして買い取り額から仕入れ金額が引かれた差額(約1円50銭)が内職の工賃として支払いを受ける。だから部品を紛失したり不良品を出したりすると直に稼ぎに響く。ちなみに1個の不良品を出すと30個分もの稼ぎが吹き飛んだ。
頑張っていた僕に母親は時々お小遣いをくれた。当時の5円玉には穴が開いていなかった。これを握りしめて近所の商店に走る。木製枠のガラスケースの中央に鎮座する10円のチョコパンを横目に、脇に控えめに並ぶ5円の甘食を買った。
5円を稼ぐのが大変だった小学3年生が、高校3年生のアルバイトで月収5万円を稼ぐとは夢にも思わなかった。・・・つづく 2025/02/21
2.男だけどヤクルトレディ
高校入学と同時に、兄からヤクルトの配達を引き継いだ。ただの配達ではなく今で言うヤクルトレディだ。それまでに経験した新聞や牛乳と違って、仕入れから配達、さらに集金、セールスまで行うオーナー制度で、頑張れば頑張った分の稼ぎが増える。割り当てられている区域は東の朝日町通り、西の相川、南は中央線、北は山の手通りで区切られた当時から比較的に可処分所得の高いエリアだった。
ちょうどヤクルトもガラス瓶からプラスチック製の容器に変わった時期で、サイズも小さく牛乳に比べ配達の労力は格段に楽だった。ただ、瓶の名残かプラスチックに変わっても空容器を出すお宅が多く回収の手間は変わらなかった。また僕が始めた年に新商品のジョア(確か40円)3種類も発売され飛ぶように売れる人気商品だった。
高校生活もクラブ活動なんて暇はない。授業が終わると速攻で帰り、中古で買ったホンダのカブを走らせ国立病院の前にある配送センターに向かう。ここで翌日の配達数量を記した注文伝票を書いて帰る。翌朝は4時に起きて夏でも真っ暗な中を出掛ける。無人のセンターには人が入れる大型の冷蔵庫が有り、簀の子の上にプラスチック製ケースに入った自分の伝票と共に商品が届いている。愛車のカブ50ccの荷台に本社から供与されたヤクルトのクーラーボックスを積み出発だ。カブは中学生から無免許で乗り回していたから運転には自信がある。だから3年間の配達で1度もこける事はなかったが、授業中に居眠りでこける事は度々あった。
そこで、せめて日曜日くらいは朝寝坊できるように土曜日に倍配と言って2日分の配達をした。
朝寝坊ができた日曜日は夕方からセールスと集金に歩いた。日曜日の夕方が家庭の在宅率が高くセールスや集金の効率が良い。一般家庭の1本2本の契約と並行して重点的にセールスしたのが担当エリアの中心にあり何時も入院患者で満床の山梨病院だった。事務長宛に何度もサンプルを届けてやっとの事でアポイント取った。約束の時間に訪問すると、いきなり単価(値切り)の話しになった。
値切りは想定していたから準備してあった答えを返した。「値引き販売は本社から厳重に禁止されていますので、代わりに10本に1本おまけを付けます。」商売によく使われる俗にいう十一だ。商談は5分と掛からなかった。先ずは10本から配達が始まり、それが30本、40本と10本単位で増え、最終的には100本プラスおまけ10本の契約になった。
ある夏の朝、山梨病院の配達を終えた時、夜勤明けの看護婦さん数人からお兄さ~んと呼び止められた。ジョアあるー?ジョアは高額商品なので配達分以外に余分は持っていない。だが相手は上得意先の看護婦さんだ。条件反射的にハーイ有ります!と答えてしまつた。物売りに取っては買ってくれるお客様が何よりも有り難い。それにその場で現金収入が得られるのも魅力だ。一人買えば私も私もだからクーラーボックスの中のジョアは瞬く間に空になった。配達の途中だが、センターに戻って緊急対応分で用意してあるジョアを出荷伝票と引き換えに仕入れる。汗だくになって配達を済ませたが、当然こんなイレギュラーがあった日の学校は遅刻になる。
学級担任は色付の眼鏡にオールバックでまるでヤクザの風貌、またお前かー!何をやってる!大声で怒鳴られて縮み上がる。校則でアルバイトは禁止されていたから、理由を問われ寝坊と答えるしかないが、答える前にげんこつが飛んできて目から火花が飛んだ。本当に悔しかった。心の中で、お前がまだ寝ている内から俺は起きて働いているんだと叫んだ。
一番大変だったのは2泊3日の修学旅行前日の3日分の配達だった。通常の3倍の本数なので配達エリアを3つに分けてセンターとの間を何度も往復した。3時から配達したが、この日も学校は遅刻だった。
凍てつく冬の朝は厳しく、梅雨の雨は辛く、そんなやこんなや色々あったけど、ただひたすら頑張った。高校の3年間は皆勤でヤクルトの配達とセールスに明け暮れ、3年生の3学期には当時の高卒の初任給が5万円の時代に、月平均5万円近く稼ぎ出し完全にバイトの域を超えた。余程セールスの成績が良かったらしく卒業を控えた頃にはヤクルト山梨販売にそのまま就職しないかと強く誘われた。
集金を滞納していた旅館があったが、4月から社会人になると伝えると全額まとめて支払ってくれた。他には、特に記憶に残るようなトラブルはなかった。総じて社会が寛容だった。それは僕が高校生だっただけの理由ではない。社会が上昇機運の良い時代、健康志向の追い風を受け良いアルバイトが出来たのは幸運だった。
僕のアルバイト歴まだまだ、こんなもんじゃない・・・つづく2025/03/21
3.冬休みの郵便配達 ~53年後の謝罪~
高校の3年間はヤクルトの他にも色々なアルバイトを経験した。時間のある限り働きたかった。何故なら3人兄弟の末っ子、4歳下の弟を大学に行かせるのが家族の目標だったからだ。中でも鮮明に記憶しているのが冬休みの郵便配達で、ヤクルトと共に3年続けた。毎年12月に郵便局がアルバイトを募集するのは、年末に増える広告などの郵便物と、当時は膨大な量だった年賀状の配達に対応するためだ。このため多くのアルバイトが採用され、正職員が年末年始の休暇を取得する目的も果たした。
甲府郵便局の本局は市役所に隣接していてカブで3分と近かった。郵便物の仕分けをする内勤と、配達の外勤に分かれている。内勤より外勤の方の時給が高かったから、僕は迷わず外勤を志願した。担当したエリアは土地勘がある北口の半分と自宅がある元紺屋町の全戸で、始めは職員が配達する赤いバイクの後ろを自転車で追いかけて道順を覚えながら各戸を回る。これを1週間で覚えてソロデビューの日を迎えた。
郵便局の真っ赤な自転車は頑丈で重く、荷台に郵便を詰めたコンテナを積むと相当な重量になる。これを駐車の度にセンタースタンドで立てるのだから大変だ。さらにハンドルの前に革製のがま口カバンを括り付ける。そして腰に書留郵便が入った縦長の革ケースをベルトで着けて自転車に跨った。本局を出発すると道は緩やかな登りで始まり、直ぐに最大の難所が待ち受ける。当時の県民会館(今のスクランブル交差点)から中央本線を跨ぐ橋長430mの舞鶴陸橋に向かう急勾配の登り坂だ。特に冬の午後は決まって八ヶ岳おろしと呼ばれる季節風が正面から猛烈に吹き付けて心臓破りの坂になる。止まったらもう動き出すことは出来ず、降りて総重量50kg近い自転車と共に歩く事になる。だから左右に振られながらも立ち上がって懸命にペダルを踏み続ける。もちろん変速ギアなど付いていない。あるのは根性という名の吾身の魂だけだ。
陸橋の坂を下って甲府駅の北口から配達が始まる。この地域は駅裏の一等地で立派な門構えの家が多く、1軒あたりの郵便物も多い。上手な配達には教わった通りの要領がある。内勤の担当者が仕分けた配達順に番号札が付いた郵便の束が、幅の広い輪ゴムで止めてある。これを左手の親指と人差し指で挟み、残り三本の指でハンドルを握る。だからブレーキは右手の前輪だけとなり慣れない内は怖い。自宅がある元紺屋町に入ると再び苦行が始まる。妙遠寺の墓地を抜けて、愛宕山の山腹に迫って建つ住宅地の配達だ。ここでは流石に自転車を降りてハンドル前方の革製カバンを外す。この頑丈で重いカバンにはショルダーベルトが付いていて、肩にタスキ掛けして徒歩での配達になる。
外勤の出勤時間は午後1時で直ぐに積み込み出発するが、自転車だから時間が掛かるのは仕方がない。それでも容赦なく12月の日暮れは早く、暗くなってから郵便局に帰ることも度々あった。局に帰ると早く戻った外勤者は内勤の応援に入り、翌日配達分の仕分け作業がある。当時の郵便番号はまだ3桁で機械が読み取るのは甲府市まで、その先は人海戦術で仕分けるのだから内勤も大変な作業だった。帰りが遅い僕は早く戻った仲間の目線が気になったが、僕の配達エリアに坂道が多いことを承知している担当の職員さんは何時もご苦労さんと優しく応対してくれた。
2年生になると経験者の扱いで時給が上がりモチベーションも上がった。配達も要領よくできる様になりミスもなくなった。そんな調子に乗っていた僕に過信が生まれた。このバイトで最も重要な元日の朝に寝坊した。ヤクルトは大晦日に元日分を倍配してあったから油断していた。1年生の時は6時前に局に出勤したが、7時を過ぎてしまった。焦って配達を始めるが、とにかく年賀状の配達は量が多いので局との間を何度も往復しなければならない。朝の出遅れが響き最後の方では昼過ぎになってしまった。ほとんどがご苦労さんと声を掛けてくれたが、1軒だけその家の主人と思われるオヤジに大声で「遅い!!」と怒声を浴びせられた。悔しい思いはしたが、いつも学級担任に怒鳴られていた僕はこの程度の事ではへこたれない。
3年生になってヤクルトが順調だったこともあって僕の慢心はさらにエスカレートしていった。時は高度経済成長の絶頂期だったから12月に入ると歳末商戦が過熱し、膨大な量の広告郵便が増える。中でも代表的だったのが甲府で競っていたY百貨店とO百貨店の年末セールを知らせる広告で、大量の封書やハガキが一斉に送られる。今では空地だらけの甲府の街も、当時は住宅がひしめき合い自転車も入れない狭い路地が普通にあった。だから面倒でも自転車を降りて歩いて配達することになる。これを普段ほとんど配達がない路地裏の長屋にまで満遍なく配っていた。1年生、2年生の時は何とか我慢していたが、流石に3年目ともなるとこの広告ハガキに対する嫌悪感が芽生え始めた。「どうせ、ほとんどの人がろくに見もせずゴミ箱に捨てるんだろう。こんな大変な思いをしている事がバカらしい!」
この日も大量の広告ハガキに疲弊しながら配達半ばの水道橋まで来た。ひねくれた思いを沸々と滾らせついに限界に達した僕は、橋の上で自転車を降りた。そして憎き広告ハガキを抜き出し輪ゴムで留めると何の躊躇いもなく川岸の背の高い草むらめがけて渾身の力で投げ捨てた。その瞬間、パチッと音がしてハガキは紙吹雪のごとく風に舞った。ひらひらとスローモーションのようにゆっくりと落ちて行き、やがて橋下のかなり広範囲に散乱した。その数100枚くらいはあった。何枚かは川に流れて行く。いっそ全部が川に流れてしまえば良かったものの、河原や脇の畑に散乱した大量のハガキは誰の目にも直ぐとまる。「悪事千里を走る」大量のハガキを投棄したのは何処の誰か、いとも簡単に分かる。警察沙汰になり学校も退学になってしまう。やばい!我に返った僕は、慌てて橋の脇の急斜面を駆け下り、水辺の石に引っ掛かり流れそうなハガキから優先的に拾い集める。幸いこの間、誰も通りかからなかったので僕の所業を見た者はいない。家が近かったので持ち帰って土間に広げ、濡れたり泥が付いたりしたハガキを雑巾で拭き取る。面倒な仕事を増やしてしまった事が情けなかった。そこに母親が仕事から帰って来た。正直に話すと「馬鹿だね」と一言だけ。促されて残りの配達に出掛ける。この日の配達を終えて郵便局から帰ると濡れたハガキは洗濯バサミで干され、他のハガキも綺麗になっていた。
幸か不幸か束ねた輪ゴムが外れたことで、川に流れて行ったハガキ以外は一日遅れで配達することができた。愚かさ故に当時は罪の意識を感じていなかったが、後に自らが広告ハガキを出す立場になった時、初めて犯した罪の重さを知った。今では交通渋滞が日常的な甲府北バイパスの水道橋に当時の面影はない。あるのは生涯拭い去る事の出来ない自責の念だけである。
まだある僕のバイト歴・・・つづく2025/04/21
2025/02/21