店主 ごあいさつ

 

多くの方々に支えられ創業36年を迎えることができました。

思えば長かったような、早かったような道のりでしたが、まだ目指す最高点の頂には届きません。煎豆屋はバブル後期の1989年に自家焙煎コーヒーの卸問屋として創業しました。
当時、県内には自家焙煎のコーヒー業者は数えるほど。厳選した原料を受注してから焙煎、新鮮パックを売りに取引先は瞬く間に県内全域に広がりました。
やがて得意先のレストランで評判になったコーヒーの味が話題になり、この店と同じコーヒーが欲しいと人々が工場を訪ねて来るようになりました。
こうして始まった工場直営の挽き売りは29年になり、レジの顧客登録は3000名を超えました。
初めは面倒だと思っていた小売りでしたが、今ではコーヒーの評価がお客様からダイレクトに返ってくる事に醍醐味を感じています。この店頭で得たお客様の反応を、卸売りの商品開発に反映させることで好循環が生まれ、多くの得意先から高い評価を頂くコーヒーが出来上がります。
今後も慢心することなく、今まで培ってきた技術と経験を基盤に、更なる高みを目指し日々研鑽を重ねて参ります。
皆様の変らぬご愛顧を、心よりお願い申し上げます。

 

 

  2025.01.01

 

              エッセー       

         「仕事が趣味で60年」

1.真空管のソケットを組立てる

社会全体が貧しい時代だったから特別な事ではないが、僕は小学3年生から母親の内職を手伝っていた。昼間はフルタイムで働く母親と夕飯後、ちゃぶ台の上、白熱電球の下で真空管のソケットを組み立てた。黒いベークライト製のソケットベースには真空管のピンを挿すための複数の穴が開いていて、母親がその穴に銀色に錫メッキされた金属端子を挿す。僕の作業は工場から貸与された千枚通しの先をカギ状に曲げた工具を使う。ソケットを底から覗くと母親が挿した端子の先に配線を半田付けするための穴が見えるから、この穴に工具の先を引っ掛けて引っ張る。するとカチッと音がして端子の顎がソケットに噛み合いロックされて抜けなくなる。これを端子の数だけ丁寧に繰り返すと1個の真空管ソケットが完成する。単純な作業だが、端子を引っ張る力の加減を誤るとベークライトは硬質の素材なので簡単に欠けて不良品になってしまう。毎晩の作業を根気よく続けると1週間で500個ほどの真空管ソケットが完成する。これを学校から帰って甲府駅北口の電機会社に納品するのも僕の仕事だった。

僕の自慢の愛車は隣りに住む器用なおじさんが何処からか拾って来たと言う部品でハンドメイドした自転車だった。今にして思えば自転車の部品が落ちている時代ではない。クズ屋(廃品回収業)からスクラップ寸前のフレームやらハンドルやらを、お金を払って買ってきたに違いない。仕事が休みの日に路地の片隅で黙々と組み立て作業をしていた。ひと月ほどして完成した自転車は24インチの子供用サイズだ。それまで僕のための自転車だとは知らなかったから驚いた。無骨な叔父さんらしい頑丈な組立に不満はなかったが、サビが相当に酷かったのだろう、刷毛で何度も重ね塗りしたペンキは異様に分厚かった。それでも本当に嬉しくて、貰ったその日は飛び上がって喜んだ。この水色の自転車に跨ると甲府駅までは下り坂だから早い。

活気がある工場に着くと、揃いの作業着を着た工員が忙しく働いていて、工場全体には基盤などのベークライトの独特の臭いと半田付けの煙が漂っている。そのツンとした刺激臭を僕の鼻腔は今でも覚えている。納品は極めて簡単で、完成した真空管ソケットを袋ごと秤に乗せ重量を計る。それを1個当たりの重量で割り算した納品伝票を受け取る。伝票に書かれた個数が母親の数えた数より少ない日も有り疑問に思ったが、小学3年生の少年が異議を唱えることは出来るはずもない。組立の膨大な労力に比して余りにも簡素な納品が終ると、次回の材料を受け取る。大きなビニール袋に入れたソケトッベースと小さな袋に入った端子が、これもまた個数は秤で計られ、数量が書かれた伝票と共に受け取る。

事故はその帰り道に起こった。自転車のハンドルに吊り下げたビニール袋が何かの弾みで前輪のスポークに絡まり破れた。直ぐに急ブレーキで止まったが瞬く間に袋から部品がこぼれた。当時はまだ舗装道路ではない土の道で、土色の地面1m四方に銀色に輝く端子が鮮やかに広がった。幸いだったのは、自動車は一日に一台見るかどうかで滅多に通らないことだった。慌てて地面に這いつくばって僕はこの長さ10mmほど、仕入れ額がべらぼうに高い銀色の端子を懸命に拾い集めた。恥ずかしいとか惨めとかと言う考えには及ばなかった。母親から聞かされ知っていたからだ。この真空管ソケットを組み立てる内職の決まりは、先ず工場から部品(1個分45円)を仕入れる。これを組み立て完成品にすると工場が買い取ってくれる。そして買い取り額から仕入れ金額が引かれた差額(約1円50銭)が内職の工賃として支払いを受ける。だから部品を紛失したり不良品を出したりすると直に稼ぎに響く。ちなみに1個の不良品を出すと30個分もの稼ぎが吹き飛んだ。

頑張っていた僕に母親は時々お小遣いをくれた。当時の5円玉には穴が開いていなかった。これを握りしめて近所の商店に走る。木製枠のガラスケースの中央に鎮座する10円のチョコパンを横目に、脇に控えめに並ぶ5円の甘食を買った。

5円を稼ぐのが大変だった小学3年生が、高校3年生のアルバイトで月収5万円を稼ぐとは夢にも思わなかった。・・・つづく  2025/02/21

2.男だけどヤクルトレディ

高校入学と同時に、兄からヤクルトの配達を引き継いだ。ただの配達ではなく今で言うヤクルトレディだ。それまでに経験した新聞や牛乳と違って、仕入れから配達、さらに集金、セールスまで行うオーナー制度で、頑張れば頑張った分の稼ぎが増える。割り当てられている区域は東の朝日町通り、西の相川、南は中央線、北は山の手通りで区切られた当時から比較的に可処分所得の高いエリアだった。

ちょうどヤクルトもガラス瓶からプラスチック製の容器に変わった時期で、サイズも小さく牛乳に比べ配達の労力は格段に楽だった。ただ、瓶の名残かプラスチックに変わっても空容器を出すお宅が多く回収の手間は変わらなかった。また僕が始めた年に新商品のジョア(確か40円)3種類も発売され飛ぶように売れる人気商品だった。

高校生活もクラブ活動なんて暇はない。授業が終わると速攻で帰り、中古で買ったホンダのカブを走らせ国立病院の前にある配送センターに向かう。ここで翌日の配達数量を記した注文伝票を書いて帰る。翌朝は4時に起きて夏でも真っ暗な中を出掛ける。無人のセンターには人が入れる大型の冷蔵庫が有り、簀の子の上にプラスチック製ケースに入った自分の伝票と共に商品が届いている。愛車のカブ50ccの荷台に本社から供与されたヤクルトのクーラーボックスを積み出発だ。カブは中学生から無免許で乗り回していたから運転には自信がある。だから3年間の配達で1度もこける事はなかったが、授業中に居眠りでこける事は度々あった。

そこで、せめて日曜日くらいは朝寝坊できるように土曜日に倍配と言って2日分の配達をした。

朝寝坊ができた日曜日は夕方からセールスと集金に歩いた。日曜日の夕方が家庭の在宅率が高くセールスや集金の効率が良い。一般家庭の1本2本の契約と並行して重点的にセールスしたのが担当エリアの中心にあり何時も入院患者で満床の山梨病院だった。事務長宛に何度もサンプルを届けてやっとの事でアポイント取った。約束の時間に訪問すると、いきなり単価(値切り)の話しになった。

値切りは想定していたから準備してあった答えを返した。「値引き販売は本社から厳重に禁止されていますので、代わりに10本に1本おまけを付けます。」商売によく使われる俗にいう十一だ。商談は5分と掛からなかった。先ずは10本から配達が始まり、それが30本、40本と10本単位で増え、最終的には100本プラスおまけ10本の契約になった。

ある夏の朝、山梨病院の配達を終えた時、夜勤明けの看護婦さん数人からお兄さ~んと呼び止められた。ジョアあるー?ジョアは高額商品なので配達分以外に余分は持っていない。だが相手は上得意先の看護婦さんだ。条件反射的にハーイ有ります!と答えてしまつた。物売りに取っては買ってくれるお客様が何よりも有り難い。それにその場で現金収入が得られるのも魅力だ。一人買えば私も私もだからクーラーボックスの中のジョアは瞬く間に空になった。配達の途中だが、センターに戻って緊急対応分で用意してあるジョアを出荷伝票と引き換えに仕入れる。汗だくになって配達を済ませたが、当然こんなイレギュラーがあった日の学校は遅刻になる。

学級担任は色付の眼鏡にオールバックでまるでヤクザの風貌、またお前かー!何をやってる!大声で怒鳴られて縮み上がる。校則でアルバイトは禁止されていたから、理由を問われ寝坊と答えるしかないが、答える前にげんこつが飛んできて目から火花が飛んだ。本当に悔しかった。心の中で、お前がまだ寝ている内から俺は起きて働いているんだと叫んだ。

一番大変だったのは2泊3日の修学旅行前日の3日分の配達だった。通常の3倍の本数なので配達エリアを3つに分けてセンターとの間を何度も往復した。3時から配達したが、この日も学校は遅刻だった。

凍てつく冬の朝は厳しく、梅雨の雨は辛く、そんなやこんなや色々あったけど、ただひたすら頑張った。高校の3年間は皆勤でヤクルトの配達とセールスに明け暮れ、3年生の3学期には当時の高卒の初任給が5万円の時代に、月平均5万円近く稼ぎ出し完全にバイトの域を超えた。余程セールスの成績が良かったらしく卒業を控えた頃にはヤクルト山梨販売にそのまま就職しないかと強く誘われた。

集金を滞納していた旅館があったが、4月から社会人になると伝えると全額まとめて支払ってくれた。他には、特に記憶に残るようなトラブルはなかった。総じて社会が寛容だった。それは僕が高校生だっただけの理由ではない。社会が上昇機運の良い時代、健康志向の追い風を受け良いアルバイトが出来たのは幸運だった。

僕のアルバイト歴まだまだ、こんなもんじゃない・・・つづく2025/03/21

3.冬休みの郵便配達 ~53年後の謝罪~

高校の3年間はヤクルトの他にも色々なアルバイトを経験した。時間のある限り働きたかった。何故なら3人兄弟の末っ子、4歳下の弟を大学に行かせるのが家族の目標だったからだ。中でも鮮明に記憶しているのが冬休みの郵便配達で、ヤクルトと共に3年続けた。毎年12月に郵便局がアルバイトを募集するのは、年末に増える広告などの郵便物と、当時は膨大な量だった年賀状の配達に対応するためだ。このため多くのアルバイトが採用され、正職員が年末年始の休暇を取得する目的も果たした。

甲府郵便局の本局は市役所に隣接していてカブで3分と近かった。郵便物の仕分けをする内勤と、配達の外勤に分かれている。内勤より外勤の方の時給が高かったから、僕は迷わず外勤を志願した。担当したエリアは土地勘がある北口の半分と自宅がある元紺屋町の全戸で、始めは職員が配達する赤いバイクの後ろを自転車で追いかけて道順を覚えながら各戸を回る。これを1週間で覚えてソロデビューの日を迎えた。

郵便局の真っ赤な自転車は頑丈で重く、荷台に郵便を詰めたコンテナを積むと相当な重量になる。これを駐車の度にセンタースタンドで立てるのだから大変だ。さらにハンドルの前に革製のがま口カバンを括り付ける。そして腰に書留郵便が入った縦長の革ケースをベルトで着けて自転車に跨った。本局を出発すると道は緩やかな登りで始まり、直ぐに最大の難所が待ち受ける。当時の県民会館(今のスクランブル交差点)から中央本線を跨ぐ橋長430mの舞鶴陸橋に向かう急勾配の登り坂だ。特に冬の午後は決まって八ヶ岳おろしと呼ばれる季節風が正面から猛烈に吹き付けて心臓破りの坂になる。止まったらもう動き出すことは出来ず、降りて総重量50kg近い自転車と共に歩く事になる。だから左右に振られながらも立ち上がって懸命にペダルを踏み続ける。もちろん変速ギアなど付いていない。あるのは根性という名の吾身の魂だけだ。

陸橋の坂を下って甲府駅の北口から配達が始まる。この地域は駅裏の一等地で立派な門構えの家が多く、1軒あたりの郵便物も多い。上手な配達には教わった通りの要領がある。内勤の担当者が仕分けた配達順に番号札が付いた郵便の束が、幅の広い輪ゴムで止めてある。これを左手の親指と人差し指で挟み、残り三本の指でハンドルを握る。だからブレーキは右手の前輪だけとなり慣れない内は怖い。自宅がある元紺屋町に入ると再び苦行が始まる。妙遠寺の墓地を抜けて、愛宕山の山腹に迫って建つ住宅地の配達だ。ここでは流石に自転車を降りてハンドル前方の革製カバンを外す。この頑丈で重いカバンにはショルダーベルトが付いていて、肩にタスキ掛けして徒歩での配達になる。

外勤の出勤時間は午後1時で直ぐに積み込み出発するが、自転車だから時間が掛かるのは仕方がない。それでも容赦なく12月の日暮れは早く、暗くなってから郵便局に帰ることも度々あった。局に帰ると早く戻った外勤者は内勤の応援に入り、翌日配達分の仕分け作業がある。当時の郵便番号はまだ3桁で機械が読み取るのは甲府市まで、その先は人海戦術で仕分けるのだから内勤も大変な作業だった。帰りが遅い僕は早く戻った仲間の目線が気になったが、僕の配達エリアに坂道が多いことを承知している担当の職員さんは何時もご苦労さんと優しく応対してくれた。

2年生になると経験者の扱いで時給が上がりモチベーションも上がった。配達も要領よくできる様になりミスもなくなった。そんな調子に乗っていた僕に過信が生まれた。このバイトで最も重要な元日の朝に寝坊した。ヤクルトは大晦日に元日分を倍配してあったから油断していた。1年生の時は6時前に局に出勤したが、7時を過ぎてしまった。焦って配達を始めるが、とにかく年賀状の配達は量が多いので局との間を何度も往復しなければならない。朝の出遅れが響き最後の方では昼過ぎになってしまった。ほとんどがご苦労さんと声を掛けてくれたが、1軒だけその家の主人と思われるオヤジに大声で「遅い!!」と怒声を浴びせられた。悔しい思いはしたが、いつも学級担任に怒鳴られていた僕はこの程度の事ではへこたれない。

3年生になってヤクルトが順調だったこともあって僕の慢心はさらにエスカレートしていった。時は高度経済成長の絶頂期だったから12月に入ると歳末商戦が過熱し、膨大な量の広告郵便が増える。中でも代表的だったのが甲府で競っていたY百貨店とO百貨店の年末セールを知らせる広告で、大量の封書やハガキが一斉に送られる。今では空地だらけの甲府の街も、当時は住宅がひしめき合い自転車も入れない狭い路地が普通にあった。だから面倒でも自転車を降りて歩いて配達することになる。これを普段ほとんど配達がない路地裏の長屋にまで満遍なく配っていた。1年生、2年生の時は何とか我慢していたが、流石に3年目ともなるとこの広告ハガキに対する嫌悪感が芽生え始めた。「どうせ、ほとんどの人がろくに見もせずゴミ箱に捨てるんだろう。こんな大変な思いをしている事がバカらしい!」

この日も大量の広告ハガキに疲弊しながら配達半ばの水道橋まで来た。ひねくれた思いを沸々と滾らせついに限界に達した僕は、橋の上で自転車を降りた。そして憎き広告ハガキを抜き出し輪ゴムで留めると何の躊躇いもなく川岸の背の高い草むらめがけて渾身の力で投げ捨てた。その瞬間、パチッと音がしてハガキは紙吹雪のごとく風に舞った。ひらひらとスローモーションのようにゆっくりと落ちて行き、やがて橋下のかなり広範囲に散乱した。その数100枚くらいはあった。何枚かは川に流れて行く。いっそ全部が川に流れてしまえば良かったものの、河原や脇の畑に散乱した大量のハガキは誰の目にも直ぐとまる。「悪事千里を走る」大量のハガキを投棄したのは何処の誰か、いとも簡単に分かる。警察沙汰になり学校も退学になってしまう。やばい!我に返った僕は、慌てて橋の脇の急斜面を駆け下り、水辺の石に引っ掛かり流れそうなハガキから優先的に拾い集める。幸いこの間、誰も通りかからなかったので僕の所業を見た者はいない。家が近かったので持ち帰って土間に広げ、濡れたり泥が付いたりしたハガキを雑巾で拭き取る。面倒な仕事を増やしてしまった事が情けなかった。そこに母親が仕事から帰って来た。正直に話すと「馬鹿だね」と一言だけ。促されて残りの配達に出掛ける。この日の配達を終えて郵便局から帰ると濡れたハガキは洗濯バサミで干され、他のハガキも綺麗になっていた。

幸か不幸か束ねた輪ゴムが外れたことで、川に流れて行ったハガキ以外は一日遅れで配達することができた。愚かさ故に当時は罪の意識を感じていなかったが、後に自らが広告ハガキを出す立場になった時、初めて犯した罪の重さを知った。今では交通渋滞が日常的な甲府北バイパスの水道橋に当時の面影はない。あるのは生涯拭い去る事の出来ない自責の念だけである。

まだある僕のバイト歴・・・つづく2025/04/21

4.謎のバイト ~馬誘導係~

学生の本分である勉学には全く無欲だったが、ことバイトには対しては極めて貪欲だった。夏休みも冬休みも持てる限りの時間をバイトに費やした。特に冬休みが最高に充実していた。朝は4時のヤクルトに始まり夕暮れの郵便配達まで、まさにバイトに明けバイトに暮れる日々を送っていた。働いて収入を得る事にこの上ない喜びと生き甲斐を感じていた。だからバイトに関する情報には誰よりも敏感だった。

そんなある日、学級担任が朝のホームルームで開口一番「バイトやりたい奴はいるか?」いつもの低音で威圧的な声だから、隠れてバイトをやっている僕には「バイトやってる奴はいるか?」と聞こえ、ドキッと心臓が飛び出しそうになった。担任が持ってきたアルバイトは「第3回信玄公祭り」の山梨県が募る補助スタッフで、県立高校として学校公認のアルバイトだと言う。祭りの当日1日限り8時間で日給3000円、さらに嬉しい弁当付きの好待遇だったから、詳しい仕事の内容も聞かず1番に手を挙げた。「ハイッ!やります!」授業では目立たない僕が、真っ先に手を挙げたものだから担任の驚いた顔は今でも良く覚えている。

仕事についての説明は何もないまま祭りの日を迎えた。昨日、担任から腕章を渡され「これを着けて12時に武田神社に行け!」とだけ指示された。黙って従うしかないので、時間にだけは遅れないように出掛けた。腕章には「馬誘導係」と書いてある。「馬・・・」よく考えてみたら今日の今日まで馬には触った事すらない。軽いノリで希望したバイトだったが、僕に務まるのだろうか?手綱を持った途端に振り回され蹴とばされ、挙句の果てに堀に落ちて溺死!!なんてことになったらどうしよう。あれこれ考えていたら、あっという間に武田神社に着いてしまった。

そこには牛かと思うような大きい馬が8頭もいた。一瞬で昇仙峡から来た馬だと分かった。祭りのハイライト甲州軍団出陣で、鎧兜で武将に扮した知事さんや、その他お偉いさん方が騎乗する馬が、まさか昇仙峡の馬車馬だとは・・・。僕の腕章を見て屈強な体格のおじさんが馬を連れて近寄ってきた。こんなに近くで馬を見るのは初めてだから後ずさりする僕に向かって「舞鶴城までよろしく頼みます」と、声を掛けられる。慌てて僕も「こちらこそよろしくお願いします」と返す。

おじさんの説明は、「手綱は持たなくていい、馬は左側通行」それと「絶対に馬の後ろに回るな!」口数が少ない所は担任と似ている。どうやら馬には触れることなく、単に道案内をするだけのようだ。僕を先頭に馬8頭と手綱を持つ8人が一列になって出発した。だが案内するような道ではない。だだ真っ直ぐに行けばお城が見えてくる。じゃあ交通整理か?これも交差点には警察官がいる。

ただ居ることが仕事、とでも言うのだろうか。仕事が生き甲斐の僕にとってはまるで古文の授業並みの退屈さだ。ぼんやりと500mほど進んだ山梨大学辺りまで来た時だった。先頭の手綱を曳いていたおじさんから突然「乗ってくか」と声が掛かる。えっ!?意味が分からない僕に「良いから乗れよ」と再び声が掛かり馬は止まった。

「鞍を掴んでアブミに左足を乗せろ」言われるままにすると、右足を持ち上げられあっという間に僕は馬上の人になった。馬の背中は高い。怖いくらいの高さだ。緊張で固まっている僕におじさんが言い放つ。「背中を丸めるな!背筋を伸ばせ!真っ直ぐ前を見ろ!」恐る恐る顔を上げると、道幅が一気に広がったように感じて目が眩みそうになる。負けじと真っ直ぐ前を見据える。

馬は背に乗せた坊主頭の高校生の事など全く意に介さない様子で歩き出す。一歩一歩進むたび見慣れたはずの街並みが初めて見る景色のように迫ってくる。潔い良いほど真っ直ぐ延びた武田通りに8頭の馬の蹄の音が響き渡り、沿道に見物の人たちが集まってくる。目を輝かせて手を振る子供たち。ついさっきまで社会の底辺にいた僕は突然スポットライトを浴びた主人公のような気分になる。勇ましく騎馬隊を従え戦に行く大将だ!粗末な身なりも今は気にならない。左腕に巻いた「馬誘導係」の腕章が勲章のように誇らしい。

「向かうところ敵なし!」と言わんばかりの凛々しい武将の気分にどっぷり浸っている時だった。目の前に母校の新紺屋小学校の横断歩道橋が現れた。「頭をぶつける!!」慌てた僕は咄嗟に首を引っ込めた。が、通り過ぎてしまえば全然ぶつかるような高さではなかった。子供たちにみっともない所を見せてしまった。百戦錬磨の武将としてあるまじき醜態である。

程なく舞鶴城公園の石垣が見えて来て、僕の妄想は吹き飛んだ。存在意義は不明だが、僕の仕事は「馬誘導係」なのだ。このまま馬に誘導されていたらバイト代はおろか、楽しみにしていた弁当まで没収されるかもしれない。武士のプライドより目先の弁当に軍配を上げた僕は、名残惜しさを振り切って馬を降り、ただ先頭を歩くだけの人に戻った。

お堀の橋を渡ると大勢の武者たちが集結し、かがり火が焚かれ本番を迎える祭りの熱気で溢れ返っていた。この後は腕章が「警備係」に変わり、南口ロータリーの特等席で歩道に張ったロープを持ち「押さないで下さい!」を連呼しながら、自分が一番前で信玄公祭りを堪能した。

あの日、どうしておじさんは馬に乗せてくれたのだろう。退屈そうな僕の背中に何か感じたのか。それとも単なる馬のウォーミングアップだったのか。真意は分からないが、馬の背に乗った瞬間、僕には生まれ育った街がまるで初めて来た街のように見えた。

自分の見え方だけが全てだと思い込んでいてはつまらない。もしかしたらおじさんは、これを伝えたかったのかもしれない。馬の背で聞いたおじさんの言葉を、今でも教訓のように思い出す。

社会人になっても僕のアルバイト癖は治らない・・・つづく2025/05/21

5.K駐車場(上)~車の運転がしたい~

3年生の夏休みも終りに近づいた頃、進路指導の先生から「学校に来い!」と呼び出された。職員室に入るや否や「お前だけだぞ!!進路が決まっていないのは!どーするんだ!」学級担任に負けず劣らずの威圧的な大声で怒鳴られる。日々のバイトが忙しく卒業後のことなど考える暇もなかった僕は、直ぐにも飛んできそうな鉄拳の恐怖から逃れるため、咄嗟に朝刊の折込チラシにあった「C社に行きたいと思います」と返す。すると「そうか良い会社を選んだな!合格できるよう頑張れ」で呆気なく面談は終わった。

どんな会社かも知らず適当に返答した僕だったが、家に帰ってチラシを良く見たら、東京に本社がある電子機器メーカーが、3年前に操業したばかりの甲府工場で従業員を募集している。そしてこの年、まさにこの8月、世界初のパーソナル電卓を発売したセンセーショナルな企業だった。

入社試験はお決まりの学科と面接で行われた。学科は頭が真っ白で何も覚えていないが、面接では将来この会社でどんな仕事をしたいか問われ「社長になりたい」と答えた。この時、三人の試験官が互いに顔を見合わせていたから、思わず「あーやっちまった」と感じた。絶対に落ちると思っていた試験に合格できたのは、世界初の電卓が空前の大ヒットを飛ばしていたからだ。この時、僕の学校に来た募集定員は5人だったが、なんと受験した7人全員が合格してしまった。

僕が就職した昭和48年は日本中が「イケイケどんどん」の時代だった。だから労働基準法もへったくれもない。発売から僅か10ヶ月で100万台を販売した電卓の生産ラインはフル回転の忙しさ、毎日の残業は当たり前、その上週休2日制になる前で土曜日は半ドンだった。社員約300人の平均年齢は25歳と若く、破竹の勢いで急成長を遂げている企業は活気で溢れていた。配属された検査2課では主に機能検査を常温と50℃の高温、-10℃の低温で行う。単純な作業も、その量が膨大なのでとにかく日々の仕事をこなす事に懸命で1年はあっという間に過ぎた。

1年間ラインでみっちり基礎を叩きこまれた僕は2年目から修理班に異動になった。当時は毎月のように新機種が発売されていて、当然それに伴うトラブルが発生する。生産量もウナギのぼりだったから不良品の数も半端なく多い。来る日も来る日も修理品の山に埋もれながらの作業だった。定時で終ることは無い。それどころか他の部署への応援に駆り出される残業まであった。高校時代にバイトでもっとハードな日々を過ごしていた僕にはまだ余裕があったが、嵐のように襲ってくる過重労働のストレスから精神を病み、僅か1年で辞めて行った同期もいた。おとなしくて真面目な好青年だったから残念だ。

僕たち若い社員は急成長で躍進を続けるベンチャー企業C社の甲府工場と言う箱の中で、揃いの作業着に身を包み、個性も独自性も封じられた。みんな同じCカラーに染められ大組織の一歯車、いや歯車ならまだましな方で、歯車を固定する何本かの小さなネジ1本程度の存在であった。与えられた仕事をマニュアル通りに繰り返す毎日だった。

そんなある朝、同期入社のHが日産の高級車に乗って出勤してきた。ピカピカの車体は紛れもない新車だ。当時ケンとメリーのテレビCMで一世を風靡した最新型スカイライン2000ccクーペだ。100万円以上もする車をどうやって買ったのかHに聞くと、ディーラーの自動車ローンだと言う。この頃は今の常識では考えられない現象が起こっていた。好景気に沸く時代背景とC社の絶大な社会的信用によるところが大きかったと思うが、勤続年数に関係なく年収の3倍もする自動車ローンが組めたのだ。忙殺されそうな仕事の反動とは恐ろしいものだった。Hのスカイラインをきっかけに同期も先輩たちも高級車ばかり競うように買い始めた。トヨタセリカ、いすゞ117クーペ、三菱ギャラン、マツダルーチェ、日産ローレル、各社の最新型高級車が一堂に揃う社員駐車場は、さしずめ田舎の田園地帯に出現した東京モーターショーだった。

入社2年目(19歳)昭和49年の4月から始まった田宮二郎主演のテレビドラマ「白い滑走路」は空前の高視聴率を記録する人気番組だった。子供の頃から飛行機が大好きだった僕は毎週テレビにかじり付いて見ていた。オープニング映像からカッコ良い。「Flap two zero」「Gear down」とキャプテン(機長)からコーパイ(副操縦士)にコールされ、ボーイング747(通称ジャンボジェット)のタッチアンドゴーで始まる。ドラマのあらすじは記憶にないが、キャプテン田宮が操縦する日本航空の全面協力によるコックピットの映像に釘付けになった。この「白い滑走路」でパイロットへの憧れが芽生えたのは僕だけではなかった。事実このドラマをきっかけに航空会社のパイロットになった若者も少なくなかった。

特別な朝は突然やってきた。僕はいつもの身延線に乗るため甲府駅に向かって小走りに急いでいた。北口のYBS山梨放送を近道で北側から回った時だった。西側通用口の守衛室前に白いポルシェ914が停まっているのが目に飛び込んできた。男だったら誰もが憧れるポルシェだ。取り外されオープンのタルガトップから中を覗き込むと左ハンドルで革張りシートの二人乗り。インパネには鍵も刺さったままになっている。手も触れられる間近にポルシェがある。電車は1本後にすればいい。守衛の視線を感じながら舐めるように眺めていたら、通用口から長身の男性が出て来た。一瞬にしてポルシェの持ち主だと分かる。僕に、いやポルシェに向かって歩いてくるのは、た・た・た・田宮二郎だ!白い滑走路で機長の田宮二郎が僕の前に立ち、目が合う。見上げるくらいに大きい。「車、好きなのか」と聞かれ咄嗟に出た言葉は「い・い・い・いくらですか?」僕の余りに唐突な質問に笑いながら「君も頑張ればすぐに買えるよ」とだけ答えると、ドンと重厚な音がしてドアが閉まる。空冷エンジン特有の排気音を響かせ颯爽と走り去る姿を、僕はポカンと口を開けて見送った。

昼休みに社員食堂で車に詳しい先輩に今朝の出来事を話すと、新車価格300万円と教えてくれた。ちょうど手取り5万円だから、飲まず食わず貯金すれば5年でポルシェ914が買える。気が遠くなった。それよりも憧れの田宮二郎に会ったこと、会話とは言えないが言葉を交わしたことが嬉しくて、この日の僕は一日中そわそわして落ち着きがなかった。

運転免許は取得したもののまだ自分の車が買えなかった僕は、こともあろうに駐車場のアルバイトを見つけた。車の運転がしたい僕はバイトで他人の車に乗ることを企てた。県営駐車場の斜め向かいにある「K駐車場」が日曜日の午後だけアルバイトを募集している。  ・・・つづく2025/06/21

6.K駐車場(中)~車の運転がしたい~

奇跡的に入社できたC社に限らず、社員のアルバイト(副業)を認めている会社はなかった。そんな当たり前の規則を、車を運転したいからと言う単純な動機で犯そうとは一体どういう神経なのか。そもそも僕は入社早々から会社(社会)をなめていた。全国から100人近い新卒採用が国立音楽大学に集められ入社式と新入社員研修が行われた。その5日目に宿舎で相部屋の同期と酒を飲んでいる所を、点呼に来た上司に目撃された。上司の部屋に呼ばれた僕たち4人は「未成年が酒を飲むとは」と厳しく叱責される。4人の上司から次々に「私にも言わせてください」と繰り返し同じ話を聞かされ、完全に酔いが回っていた僕たちは、直立して長い説教を聞くのが苦痛だった。こと細かに説明を求められ、最終的に勝手に外出して、酒屋でウイスキーとコーラを買ってきた僕には主犯格の烙印が押された。

悪いことは続く。半分開き直ってクビも覚悟した僕たちは研修の最終日に寝坊してしまった。布団を上げに来た番頭さんが大きな声で「お客さーん!まだ寝てるんですか!」「皆さんもう出かけましたよ!」慌てて飛び起きる。この日は立川と甲府の工場見学が予定されていて、会社が所有するバス3台は既に出発したと言う。タクシーを呼んでもらって立川工場に向かう。ここで何とか最後の一台に追いつき事情を話して、ギリギリ補助席に滑り込んだ。隣の席は山形営業所に採用された男性で、初めて生で聞いた東北弁は柔らかく、打ちひしがれた僕の悲壮感を慰めてくれた。

12時から19時の7時間で日払い2800円(時給換算400円)当時としては悪くなかったから直ぐに電話を掛けた。その日のうちに出向いた面接は簡単だった。無傷の運転免許証(ペーパードライバーだから当然)と社員証を見せたら即採用になった。ここでもC社の社会的信用は絶大だと知る。ただ一つだけお願いがあった。社員規則で当然ながらアルバイトは禁止事項なので、親戚なので頼まれて忙しい日曜日だけ「無報酬の手伝いをしている」と話を合わせてもらった。

翌週からバイトが始まった。あの頃、甲府の中心街は毎日が「盆暮れ正月」が一度にやって来たような賑わいがあった。デパートなどの商業施設も映画館などの娯楽施設も中心部に集約され、特に飲食店の軒数は人口比で全国3位と多かった。経済は夢のような絶頂期で、中でもモータリゼーションは華々しく庶民向けの大衆車も高級スポーツカーも次々に発売された。だから休日になると全県から多くの人々がマイカーに乗って甲府に集まって来る。これらの車を迎え入れるため県営の駐車場が最適な立地(現ココリ)にあった。鉄骨コンクリート構造の県営駐車場は1階2階と屋上の3フロアーに約150台を収容する当時としては県下一の大規模な駐車場であった。これが毎週日曜日の午後には一杯になってしまう。特に給料日あとで大安吉日が重なると、買い物客と結婚式に出席する車で、昼頃には入口に遠くからも良く見える大きな満車の赤ランプが灯ってしまう。こうなると県営駐車場の100mほど手前で右車線にあるK駐車場は臨戦態勢にはいる。一方通行の左車線に入庫待ちの車が5台以上停車すると、K駐車場に次々と車が流れ込んでくる。だから日曜日の午後は常勤だけでは手が足りなくてバイトを募集したわけだ。

K駐車場の収容台数は約50台で、限られたスペースを有効利用するため車は縦に2台を縦列駐車していく。鍵はナンバーを記した荷札を付けて入口の受付(清算所)で預かる。後ろに駐車したお客さんが先に帰ってくると、駐車場の中央付近で待機している僕たちスタッフはお客さんから前の車のナンバーを聞いて受付に走る。該当する車の鍵を受け取ったら再び走り移動する車に乗り込む。教習所で4速コラムシフトのクラウンしか運転したことがなかった僕は、初めてのフロアシフトを操作する事に動揺する。当時はMT(マニュアル車)が当たり前で、ギアのシフトパターンは車ごとにみな違う。座席を前にスライドして、クラッチペダルを一杯に踏み込みエンジンをかける。シフトノブのローギア(1速)は左上が普通だが、時々ここがバックギア(R)の車がある。だから必ず確認してからギアを入れ半クラッチで発進する。低速時のハンドルは岩でも動かすように重い。油圧で補助するパワステなどない時代だったから、100%腕力で回すパワー「要る」ステアリングだった。後ろの車が出るとバックギアだが、これがまたも難解だった。前進と間違えて後退に入れないように、プッシュバックの車種とプルバックの車種がある。慣れている持ち主に取っては何でもないが、不慣れな他人には複雑怪奇の何物でもなかった。色々な車がある驚きはあったが、なぜ統一されていないのか疑問に思うことは無かった。そもそもそんなことを考えている暇などないほど忙しかった。

駐車場と言う極めて狭小なスペースで、誰もが苦手意識をもつ車庫入れは決して簡単な仕事ではない。もちろんバックモニターなんてない。サイドミラーに映る白線と自分の感覚だけが頼りで、何度も切り返したり、降りて後ろを見に行ったり、まごまごする僕はカッコ悪い。それもそのはず、緊張が増幅するのはお客様の大切な車だからにほかならない。ピカピカの新車には特に気を使った。緊張感の代償は時間の経過が早い事で、7時間の勤務があっという間に過ぎる。会社の単調な仕事とは違い、変化に富んだこのバイトが楽しくて毎週日曜日が待ち遠しかった。

常勤で朝から勤務している初老のおじさんは右腕がなかった。自分からは何も語らないが戦争で失ったと又聞きした。右腕は肩から無くて真夏の暑い時期でも長袖のシャツを着ている。走ると上半身が左右に大きく揺れて、シャツの右袖は不自然に風にそよいだ。その姿は傍目には不自由に見えたが、左腕一本でハンドルとシフトギヤを上手に操作し、白線内に真っ直ぐ駐車する技術は見事だった。それと常連のお客さんの滞在時間は分かっていて、僕に効率の良い駐車位置を指示してくれた。何より明るい性格で何時も朗らかに笑っている。だから僕はおじさんの分まで猛ダッシュで走り回って、他の誰より多くの車を運転した。

特にフェアレディZやセリカなどスポーツカーの運転は、僕に任せてと鍵を奪い取るようにして乗り込んだ。憧れの車、欲しい車の包み込まれるシートに座り、ハンドルを握って一時の優越感に浸っていると後ろからクラクションで急かされる。ブォンと不要な空吹かしでアクセルのレスポンスを感じる。シフトレバーは小さなストロークでカチッと決まる。「いいなー!ため息がでた」時々、ポルシェやジャガーが来ることもあったが、この時ばかりは社長が運転して僕には触らせてくれなかった。

K駐車場のバイトも半年が経過して仕事の要領も覚え、すっかり運転も上手くなった頃だった。それまでにもC社の先輩や同期に出くわすことがあったが、親戚だと適当にかわして来た。だがついに、絶対に見つかりたくないと願っていた総務課長が来てしまった。逃げ隠れする間もなく「何をしているのですか」と丁寧な言葉で聞かれる。蛇に睨まれた蛙のごとく呆然と立ちすくむ僕・・・絶体絶命の窮地に追いやられた。・・・つづく2025/07/21

7.K駐車場(下)~20歳で終わった~

今にしてみれば本当に良い時代に良い会社に就職したと思う。特にC社の業績は目覚ましく、福利厚生も充実していた。そのひとつがクラブ活動で、野球・サッカーなどの運動部と、華道・茶道などの文化部があった。必要な道具やユニフォームは会社が購入してくれたから有り難かった。仕事に於いては個性も独自性も発揮できない風潮があったが、この部活動はそれぞれが自由に自己表現できる場だった。それと普段は関係ない他部署の人との交流もあり仕事の視野が広がる利点もあった。僕は誘われて山岳部に入り最年少部員として先輩たちから可愛がってもらった。そのシゴキに耐える自主トレーニングとして桃源郷マラソンや櫛形山登山競争などに個人で参加していた。この時声を掛けてきたのが、駅伝部の部長Sさんだった。Sさんは大学時代に長距離ランナーとして活躍した技術職のエリート社員で、長身なのに社内をいつも小股で歩き不思議なオーラを放っていた。

そのエリートSさんがある日の仕事帰り、駅前の食堂が混んでいて注文した物が出てくると同時に電車が来てしまった。するとSさんは「どんぶりは明日返すから」と言ってラーメンを手に電車に飛び乗った。さすがの僕もラーメンどんぶりを持って電車に乗る神経はない。その度胸はマラソンで鍛えた心臓にあるのか、と思い僕はSさんに弟子入りを志願した。そんな型破りのS部長率いる駅伝部の練習は容赦なくキツかった。それでもタイムが向上してくると、補欠から選手に昇格できて充実感を味わった。

こんな好待遇のC社を、車の運転がしたいがために、せっかく就職できたC社を棒に振るとは。本当にアホだった!こんな目立つ場所でバイトしていたら、遅かれ早かれ見つかるのは明白だった。スーツ姿の総務課長は愛車のビートルではなく徒歩でK駐車場に入って来た。そして中央付近で待機する僕だけを見据え一直線に歩いて来た。近づいてくる革靴の響きに僕の鼓動も高鳴る。靴音が止まった時は僕の心臓も止まるかと思った。「何をしているのですか」矢継ぎ早に「ここは親戚と言うことですか?」と、問われた。準備してあった言い訳を先に言われてしまったのだから、もう僕は何も言えない。言葉は紳士的でもその目は刑事のように鋭い。すべてを見透かされている気がした僕は、ただ一言「すみませんでした」と謝るしか出来なかった。

職場での僕は何かと出る杭だった。要領よく楽な仕事ばかり選んでいる先輩に意見したり、仕事の進め方で衝突したり、上下関係なく持論をぶつける僕に不快な感情を抱いていた同僚の一人や二人いてもおかしくはない。総務課長は誰かから得た情報の裏を取るため、休日返上で自ら現場に来た感じだった。日頃お気楽能天気でストレスフリーの僕も、さすがに崖っぷちに追いやられたこの夜は寝つきが悪かった。

翌日は社員食堂で月に1度の全体朝礼が行われた。終了後に直属の上司M係長から呼び止められ「このまま総務課長の所に行くように」と告げられる。まずい! 係長ではなく、総務課長から直々に呼ばれてしまった。と、なると重大な話になりそうだ。ましてや僕には新入社員研修での前歴がある。C社に限らず大きな組織には行動規範など厳格な規則が定められている。例えば、書けなくなったボールペンは空になった芯を事務員さんの所に持って行き、本当に書けないか確認してもらい初めて新しい芯と交換できる。ボールペン1本にすらこれほど厳しかったのだから、僕のバイトは極めて重大な規則違反だ。人事に絶対的な権限を持つ総務課長から呼ばれたのだから僕は観念するしかなかった。

総務課は社員食堂の2階にある。重い足取りで階段を登り切ると正面に受付カウンターがあって、美人ではないが利発な印象の受付嬢と目があう。「検査2課の小田切ですが総務課長に呼ばれ参りました」「少々お待ちください」滅多に来ることもなかった総務課も今日で見納めだろうから、広いフロアを見渡す。市役所なんかと同じように天井から庶務係、経理係、人事係などのプレートが吊るされている。そのプレートの下に事務員さんの机が向かい合って並び、書庫を背にした上座にはタバコをくわえた係長が難しい顔をして僕を見る。パソコンはもちろん、ワープロすらなかった当時は20人ほどの事務員さんでアナログ書類の山と格闘していた。でもさすがにソロバンは無かった。

受付の内線が鳴り、案内されたのは総務課の一番奥にある工場長室だった。この部屋に入るのは面接試験の時以来で緊張は頂点に達する。南向きの明るい部屋の中央には面接の時には無かった大きな応接セット置かれ、工場長と総務課長が座っている。「失礼します!検査2課の小田切です」沈む気持ちを奮い立たせ大きな声で挨拶をする。工場長は僕の顔を見るなり「あぁーやっぱり君だったか!」と親しみを込めた満面の笑みを浮かべ、いきなり半年前の駅伝の話しになった。それは毎年C社の地元で開催される駅伝部にとって最も重要な「中巨摩群実業団対抗駅伝大会」だった。スポーツ好きの工場長も沿道に応援に来ていて、準優勝した今年は出場したランナー6人が全体朝礼の時に名前を呼ばれて全社員の前に整列して報告会が催された。工場長の祝辞で印象に残ったのはS部長(兼ランナー)が発案したゼッケン番号で、C社の看板商品「ミニ」をなぞらえた32番だった。カタカナ3文字で大きな社名の下に、さらに大きく32だから、僕らのことを走る広告塔だと称えてくれた。この時、社員食堂に大きな拍手が巻き起こって誇らしかった。半年も前の大会を工場長はよく覚えていて「小田切君は確か3区だったね」と言う。「まあ掛けなさい」と促されソファーに座った。人生20年生きてきて初めてソファーという物に腰を下ろした。そのあまりにもフカフカな感触は例えようもない違和感があった。大切なお客様のためのソファーに平社員の僕が座っている。明らかに分不相応で場違いな感覚で気持ち悪かった。

総務課長から「社員手帳の13ページを開きなさい」と促され作業着の胸ポケットから手帳を取り出す。忘れず携帯していたのは良かったが、僕の手帳は貰った時のまま、1度もページをめくったことが無い新品だった。だから紙のフチが張り付いている。パリパリとやっとの事で開く。「第4項を音読しなさい」「はい」ソファーから立ち上がった時、足がふらついた。「服務規程 第4項 正社員、準社員を問わず如何なる事情であってもアルバイト等の副業に従事することを禁ずる」声が震えて上手く読めない。遡ること2年半前、新入社員研修の宿舎で飲酒し、最終日には寝坊してバスに乗り遅れる失態を演じた。入社と同時にクビも覚悟したが、辛うじて首の皮一枚で繋がってきた僕は、仕事は当然、部活にも真剣に向き合ってきた。僅かな歳月だったが色々なことが走馬燈のように駆け巡る。

最高責任者の工場長はおもむろに立ち上がり、本来ならば「服務規程違反で解雇」です・・・が、服務規程を遵守し、職務と来年は優勝を目指して頑張ってください。今回は「厳重注意」とします。

予期せぬ結果に僕は全身の力が抜けて、へなへなと豪華なソファーに座り込んでしまった。

僕のアルバイト歴は終わった。 20250821

煎豆屋店主 小田切 義人

2025/02/21

電話をかける